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2026-08-15

手触り

世界の手触りを感じること

手触り

二十歳の頃、虚無に落ちた。

それまでは、自分なりに正しさを信じていた。起業して、技術を使って、世界にある問題を少しでも解決する。それには意味があると思っていたし、そういうことに人生を使いたいと思っていた。

だが一度失敗して、少し立ち止まった。

そこで初めて、「俺はなんでこれをやっているんだろう」と考えた。

世界を良くしたいから。でも、世界が良くなるとはどういうことだろう。戦争や貧困がなくなることは、本当に「良い」ことなのか。そもそも良いとか悪いとかいうものは、どこにあるんだろう。

考え始めると、どんどん遠くまで行ってしまった。

自分の人生から離れて、社会を見る。社会から離れて、人類を見る。人類から離れて、地球を見る。最後には宇宙から世界を眺めていた。

そこまで遠くへ行くと、すべてが小さく見えてしまう。

自分が成功しようが失敗しようが、宇宙にとっては何も変わらない。人類が少し豊かになろうが、戦争をしようが、いつかは地球ごとなくなってしまう。

そう考えると、何をする意味も分からなくなった。自分の人生に価値を感じなかった。

それが、俺の虚無だった。

ただ今になって、あの頃に何が起きていたのか、少し分かる。

たぶん俺は、遠くに行きすぎていた。少しも手触りを感じていなかった。

当時の自分は、戦争を知っていた。貧困も、いじめも、自殺も知っていた。

でも、俺はその名前を知っているだけで、その存在に触れていなかった。

「貧困」という二文字と、実際に今日食べるものに困っている人は、全くの別物だ。「自殺」という言葉を知っていることと、死にたいと思っている人の話を聞くことも、全然違う。

少し遠くから見れば、それは社会が抱える課題であり、もっと離れるとそれは人類史における一つの現象になる。

でも、近くまで行くと全然違う。

当事者と話して、その人が困っていることを聞くと、それってつらいよな、もう少しこうなったらいいのに、何か自分にできることはないか、とか自然に考える。

つまり、手を伸ばせば届く距離まで世界に近づくと、それは自分事になるってことだ。

俺は、この感覚を「手触り」と呼んでいる。

実際に存在するものと触れ合って、感じて、考えること。

それは遠くから世界を眺め、全てを知った気になることと真逆の体験だ。実在する何かに触れた時、人は初めてそれを理解できる。

それが、虚無に対する俺の答えだ。

もちろん、俯瞰することも大切だと思う。

目の前のことだけを見ていると、それが世界のすべてになってしまう。社会で正しいとされていることを、そのまま正しいと思ってしまうこともある。今日の失敗が、とんでもなく大きなことに思えることもある。

そんなときは、少し遠くへ行けばいい。

視野を広げて、視座を高める。そうすれば、大抵のことは小さく見える。それまで見えていなかった何かが、見えるようになる。

でも、いつまでもそこに居続ける必要はない。

ずっと宙に浮いてると、気分だけは世界の全てを見渡しているようで、何もかも理解した気になってしまう。

だから虚無る。

そうなったら、また地上まで降りてくればいい。

今の俺にとって世界を知るということは、実在に触れて、それを自ら作り直すことだ。

車輪の再発明と揶揄されるそれは、本当に無価値な行為なのか。

本当の意味で車輪を「理解」するために、再発明は必要な過程だと思う。

本で読んだことも、人から聞いたことも、一度自分の手元で作り直さないと。何かを新たに作り直すことは、決して無駄な行為じゃない。

宇宙は広いし、歴史は果てしない。でもそれと同時に、目の前にある小さな「それ」も、よく見れば本当はめちゃくちゃに面白いはずなんだ。

あの頃の俺は、遠くへ行くことしか知らなかった。

今は、戻ってくることを知っている。

虚無と盲目を往復し、世界の手触りを感じているから、今日もなんとかやっていけてる。